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『蘭学階梯』
寛政4(1792)年、鳥取藩の藩医・稲村三伯は江戸にいた。蘭学を学ぶため、郷里から3年の期限つきで遊学にきたのである。 藩からの命令ではなく、自ら願い出てのこと。すでに30代半ばに達する三伯をそうさせたのは、蘭学をすすめる一冊の本だった。『蘭学階梯』──天明8(1788)年、大槻玄沢が出版したこの本には、津山、出雲など鳥取藩周辺の藩医が書いた激励文もふくまれていた。それが、三伯に西洋の医学を身近に感じさせ、興味をかきたてたのかもしれない。 三伯は江戸の藩邸に勤めながら、玄沢の蘭学塾「芝蘭堂」へ入門。人生の半ばから、蘭学者への道を歩きだしていく。 言葉の壁 鎖国中の日本にとって、オランダは西洋への唯一の窓口。しかし、洋書が輸入されても、蘭学が普及するには大きな障害があった。“言葉の壁”である。 辞書のない当時、オランダ語を読むには長崎で勉強してきた者やオランダ通詞(通 訳)に聞くしかなかった。三伯の師・玄沢も長崎で通詞について学んだ経験はあったが、それだけでは限界がある。自らも勉強しながら塾を開いたという状況だった。 3年後の心配 三伯は短期間のうちに「芝蘭堂」の四天王の一人といわれるほど、力をつけていった。江戸での勉学の期限はわずか3年。それこそ寸暇をおしんで勉強したのだろう。だが、がんばるほど不安も募っていく。郷里に帰ってから蘭学書が読めるだろうか……。三伯は期間の短さと勉学の不十分さを痛感していく。 「辞書さえあれば」……どこにいても、辞書があれば勉強は続けられる。入門したときからその可能性を考えていた三伯は、いよいよ決意し、辞書づくりに取りかかる。それは、オランダ人、フランソワーズ・ハルマがつくった蘭仏辞書を翻訳するという大変な作業であった。 『ハルマ和解』の完成 昼は江戸藩邸に勤め、その合間や夜中に辞書づくり。その苦労は並大抵のものではなかった。“才気と弁舌に富み、物事に屈しない”といわれた三伯も、翻訳の疲労のため頬はこけ、尋常ならぬ 様子だったという。 もと通詞の石井庄助や多くの同僚の力を借りて、寛政8(1796)年、原稿は完成する。しかし、印刷機のない時代、約6万語の『ハルマ和解』を筆写 するのにさらなる労力と2年の月日がかかった。ようやく30部余りを刊行したとき、三伯の心を占めていたのは、どんな想いだったのだろう。 三伯のまいた種 蘭学者たちが“喉から手が出るほど”ほしがった蘭和辞書。その完成は鳥取藩にも評価され、三伯は十俵の加増を受けた。しかし、皮肉にも三伯は辞書出版による借金などの問題から脱藩へと歩んでいく。辞書を使って鳥取で勉学する──その願いは、とうとう実現しなかった。 だが、名を変え住む場所を変えても、蘭学の人であることに変わりはない。京都で彼が開いた蘭学塾は近畿地方における蘭学者育成の拠点となり、門人は200人とも300人ともいわれている。その一人、藤林普山は『ハルマ和解』をより手軽な辞書に作り直し、『訳鍵』と題して出版。三伯のまいた蘭学の種をいっそう広める役目を果たしていった。 |
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