■稲村三伯(いなむら さんぱく)
日本最初の蘭
和辞書をつくった蘭学者。名は箭(せん)、三伯は通称。宝暦8(1758)年、鳥取の町医者・松井如水の三男として生まれる。13歳で藩医・稲村三杏の養子になり、福岡で医学を学んだのち養父の跡を継いだ。寛政4(1792)年、江戸で大槻玄沢の蘭学塾「芝蘭堂(しらんどう)」に入門。苦心の末、蘭和辞書『ハルマ和解(わげ)』を完成させた。45歳のとき故あって脱藩し、海上随(うなかみずいおう)と改名。晩年は京都で蘭学塾を開き、後輩の育成に力を尽くした。文化8(1811)年、54歳で逝去。
■大槻玄沢(おおつき げんたく)
蘭学者。岩手のオランダ外科医の家に生まれる。22歳のとき江戸に出て、『解体新書』を翻訳した杉田玄白・前野良沢に医学・蘭学を学ぶ。さらに長崎に遊学して学識を広げ、天明8(1788)年『蘭学階梯(らんがくかいてい)』を出版。オランダ語に対する世間の関心を高めた。翌年、蘭学塾「芝蘭堂」を開き、三伯ほか多くの門人を輩出した。

稲村三伯の
役割と蘭学


医学博士
森 納

 三伯は非常にスケールの大きい人物です。人に好かれる大らかな性格だったから、多くの協力者を得て『ハルマ和解』を完成することができたと思うんです。実際、辞書づくりにかかった費用は藩医の給料で賄えるようなものではないんですよ。三伯は藩家老の乾長孝や藩主の母・桂香院に愛され、いろいろと厚遇してもらっていた。それでも多くの借財をして、なんとか刊行できた状況でした。後の三伯の脱藩は、表向きは弟の借財が原因となっていますが、私は三伯が『ハルマ和解』に費やした借財だと考えています。
  辞書としては、『ハルマ和解』より『訳鍵』の方が広く使われました。『ハルマ和解』は手に入りにくかったし、約6万語も書き写 すのが大変で途中でやめる人も多かった。そこで、三伯の弟子・藤林普山が訳語を約3万語に減らし、手軽に使えるよう改良したんです。これは多くの蘭学者に喜ばれ、後々まで活用されました。
  しかし、だからといって三伯より普山が優れているというのではない。三伯は何もないところに、まず土台をつくった。それがあったから、『訳鍵』ができたのです。
  鎖国中の日本で『ハルマ和解』の役割は、西洋知識のもとになったこと。辞書という足場を得て蘭学は次第に広まっていき、日本の近代化への原動力となったのです。

<参考資料>
森 納
『因伯洋学史話』富士書店

『日本最初の欧和辞書「ハルマ和解」』(「江戸時代人づくり風土記」No.31鳥取、1994.7.20)
農山漁村文化協会

斎藤信 『日本におけるオランダ語研究の歴史』大学書林

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